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ノイシュヴァンシュタイン城 [D2.日本史・世界史・近未来]

85年7月ヨーロッパ旅行時撮影 マリエン橋からみたノイシュヴァンシュタイン城

  「ハプスブルク家の悲劇」には、私が22年前に訪れたノイシュヴァンシュタイン城にまつわる話もあります。このお城のことをWikipediaでは、

ノイシュヴァンシュタイン城Neuschwanstein)はドイツバイエルン州フュッセンの南方、オーストリア国境近くにバイエルン王ルートヴィヒ2世により建設されたである。現在はロマンチック街道の終点として、人気の観光スポットとなっている。城の中を見学することができる。近くにルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごした、彼の父が所有するホーエンシュヴァンガウ城がある。ノイシュヴァンシュタインという名は、現在ホーエンシュヴァンガウ城のある地にかつてあったシュヴァンシュタイン城にちなみ1890年になってから付けられた名であり(「ノイ (Neu)」は「新しい」の意)、建設当時はノイホーエンシュヴァンガウ城と呼ばれていた。シュヴァンガウは、白鳥河口の意味の地名で、ホーエンシュヴァンガウは、上シュヴァンガウ村のことである。ノイシュヴァンシュタインは、新白鳥城という意味である。

  主人公は、バイエルン王のルートヴィッヒ二世。彼は幼い頃からロマンチックなゲルマンの英雄伝説などに親しみ、ワーグナーのオペラの魅力にもとりつかれていました。美男子で男色家だったそうです。1864年、19歳で王位につくやいなや、ワーグナーの行方を捜しました。

  一方、ワーグナーは、当時51歳、30歳でザクセン王室の宮廷指揮者で絶頂期を迎えていましたが、ドレスデンの5月革命蜂起に関与したとし、追われる身になっていました。それからは、ザクセン官憲と借金取りに追われる日々を過ごしており、このルートヴィッヒ二世の申し出は、奇跡の訪れでした。ルートヴィッヒ二世のワーグナーへの熱中ぶりは、「芸術家とその庇護者」を越えるもので、彼のためにオペラ座や劇場を建てたりと、小国バイエルンの財政を圧迫しつづけました。困り果てた、バイエルン政府は、国家とワーグナーとどちらを選ぶのかと迫り、王は涙をのんで、ワーグナーに暇をだしました。

  悲嘆にくれ、厭世的になっていたルートヴィッヒ二世は、しだいに国務を放棄しだし、次に熱中し始めたのが、城の建築でした。こうして、ノイシュヴァンシュタイン、リンダーホフ、ヘレンキムゼーなどがワーグナーへの援助とは比べ物にならない巨費を投じて、次々と着工されていきました。しかも、1晩だけ泊まってあとは、だれもすまないというような使い方をしていました。さすがの政府も建設の中止を申し入れましたが、国王は聞き入れません。国王の奇行も激しくなり、政府は、国王の退位を画策します。

  ちょうどノイシュヴァンシュタイン城にいる国王のもとに、政府の国家委員会が王を説得しようと向かいました(一種のクーデターです)。そして、スタインベルク湖畔のベルク城に幽閉されました。そして、散歩に行くといって、それについていった医者のグッテン博士と二人が、湖で溺死しているが発見されました。死因は謎に包まれていますが、王(41歳)が博士を殺害して、自分は、湖に身を投げたのあろうといわれています。1886年の6月のことです。

  その後の1918年、第一次世界大戦の終息とともに、バイエルン王国は解体され、ヴィテルスバッハ王朝も終焉を迎えます。

  22年前、お城の中で、案内の人がいろいろと説明してくれていましたが、全然、覚えていませんが、こういうことだったのでしょうか。

  


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