SSブログ

サラエボ事件 ~貴賤嫁いびりがもたらしたハプスブルク家の悲劇 [D2.日本史・世界史・近未来]

  「ハプスブルク家の悲劇」の「サラエボ事件」のことをまとめると、Wikipediaには、

 サラエボ事件とは、1914年6月28日にオーストリア・ハンガリーの皇帝=国王の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が当時オーストリア領であり、「ヨーロッパの火薬庫」と言われたサラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年によって暗殺された事件。この事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。

 とあります。

1889年マイヤリンク心中事件で、皇帝フランツ・ヨーゼフは、後継者のルドルフ皇太子を失いました。それで、白羽の矢があったのが、皇帝の二人目の弟カール。ルートヴィヒの長男で、30代半ばのフランツ・フェルディナント大公でした。

それから1900年に、彼は、身分の違う女官のゾフィー・ホテクと周囲の反対を押し切り結婚します。それから、ゾフィーは、宮廷内で差別をうけつづけ、他国へ訪問するときだけが、帝位継承者夫妻として大歓迎される状態でした。

フランツ・フェルディナントは、オーストリア=ハンガリーの二重帝国の上に、さらに南スラブ人の自治を認めて、三重帝国を再編成しようと考え、1908年、セルビアと隣り合わせのボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合してしまいました。

これは、ボスニアのセルビア人も吸収してしまうので、セルビアは猛反発しました。

そんな緊張の中、ボスニアの首都サラエボでのコソボの勝利を記念する歓迎行事にフランツ・フェルディナント大公夫妻は、側近たちの中止の説得にも応じず、出席しました。

そして、真紅のオープンカーで、パレードをしながら、進んでいると、突然、爆弾いりの花束が沿道に、投げ込まれましたが、危機一髪で、夫妻は難を逃れました。

式典の後、爆弾で怪我した副官を見舞いに行こうとしたのですが、運転手が間違えて、前からの予定のコースを走り始めます。

間違いに気づき、ストップして方向転換をしようとしたときに、ちょうどそこには、暗殺者のセルビア青年がおり、夫妻を暗殺しました。

この暗殺には、セルビアが当然かかわっているものとみなされ。

1914年7月28日、オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発したということです。

 

本著には、もし、ゾフィーが宮廷内であそこまでしいたげられてなければ、サラエボには、いかなかったかもしれない。

 

結婚政策で勢力を伸ばしてきたハプスブルク家が、貴賎結婚へのいびりが原因で結局は滅びてしまうのは、運命の皮肉といっています。

もしよかったら、こちらもどうぞ。 Nasser ナセル|note

 

 


スポンサードリンク


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 1

株の初心者

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
by 株の初心者 (2014-06-14 11:53) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。